2022年8月12日 (金)

バーイードとバスラットレオンの差

 サセックスSはゴール前で置き去りにされたとはいえ、3着争いの4着。バーイードはフランケルと同じローテーションを歩む世界最強馬の一頭だから、良くやった。マイルで3着を争えるところがすごい。

 フランケルのセントジェームズパレスSの時、グランプリボスが出走したときは、最後全くついていけずだったので、ずいぶん差が縮まってきたもんだ。

 フランスのマイラーはたいしたことはなさそうなので、ここも3着以上を期待。勝ったら騒ぎだけど。

 雨が降らないかなと思う。屋根を叩くばりばりという雨音、アスファルトを打つさあっという音、暗くなってエアコンが効いてくる。そんな雨からずいぶん遠ざかっている。待ち遠しい。

 雨が風を連れてきて、樹がもうもうと枝を振りながらもやっている。傘は差してもたいして効かず、靴はずっぽりと濡れて重い。自慢のかばんはびしょびしょで、元に戻るんだろうかと心配になるが、それは後の話。

 そういう雨が待ち遠しい。

 車を車庫に入れる。車を車庫から出す。車から降りてほんの十メートルだけ歩く。それだけで相手から気の毒がられるくらいに濡れそぼってしまう。タオルを使ってください、いや拭くのは持ってますとハンカチで頭を拭く。メガネを拭く。その辺りでやっぱり出されたタオルを手に取って、後頭部の一番濡れたところを拭う。

 そんな雨が遠ざかって久しい。

 雨はこれから降るんだろうか?

 野球を中止させ、測量士は書類整理をし、車の視界を短くする雨。

 折りたたみ傘を持っているような奴。そんな言い回しがある。どんな時でも何が起こっても、用意周到に平然と対応するような、嫌な奴。(雨が降ったら濡れろよ)と回りの憤りを買うような奴。

 だから、折りたたみ傘を持っておきましょう、なんか絶対に言うもんか。

 銀行のCDまでの傘を忘れてしまう。車庫に戻った車が湯気を立てている。濡れた靴下を替える時、匂わないことに満足を感じる。そんな雨が待ち遠しい。

 次の雨に備えて、自転車のレインスーツを新調しようか。

 雨が降って、どこにも行けない日。気兼ねなく本を読む。いろんな本の中に、いろんな雨が出てくる。雨はいいなあ、と飛び跳ねるような文章に出会ったことがある。これから先降る雨も、今までの雨とそれほどの違いはないだろうと思う。

 言葉なんてどうでもいい。雨が降るとほっとする。(了)

2022年8月 5日 (金)

ブーケファロス

 聞き覚えのある名前だなと思って検索したら、同名異馬で93年谷八郎厩舎のブーケファロスが田原で勝っている。当時注目していたと思う。

 当時のはノーザンテースト牝馬にハッピープログレス。今年のブーケファロスはダンディコマンド牝馬にビッグアーサー。マル父のスプリンターが共通する。

 JRAの2歳リーディングトップを走るビッグアーサーの首位固め。ダリア賞が今週のメイン。

英雄なんかいらない

 一人を殺せば犯罪者だが、百万人殺すと英雄になる。チャップリンの映画『殺人狂時代』のセリフ。百万人殺したら英雄扱いされてしまう、ただの大量殺人者なのに、という映画本来のニュアンスが、言葉だけ一人歩きし、だいぶ曲げて解釈されている。百万人殺したら英雄なんだよ、というように。歴史の教科書には、そういう大量殺人者が何百人も出てくる。

   ***

 雑誌は隔月刊で、奇数月の25日に出る。その日に買って自分で読む。一通り読むと、月初のどこかの日に母の食卓に置く。前号を回収し、再び読み始める。

 前号に折り目がついている。雑誌も本も、折り目をつけられると、その部分が弱り、しまいには切れてしまう。ついた折り目は二度ととれない。そういう理屈を母に言っても無駄である。いや、本当は無駄ではないかもしれないが、もう言おうとは思わない。かといって雑誌を取り上げるのは本末転倒だ。雑誌の保全のために母がいる訳ではなく、母の退屈をしのぐために雑誌がある。

 折り目が同じページに二つついている。そこが気になるから折っているのではない。そこの文章が読むのに苦労するから、そこで二度中断した、という跡だ。すいすい読める文章は、手垢や折り目がつく暇はない。

 そういう母の日常は、昭和二十年の終戦前はどうだったのか。

 雑誌の創刊は戦後であるから、戦火が近づくにつれ、空襲警報が鳴り、灯火もないはずだから、ろくな読書はしていなかったはずだ。

 創刊された雑誌を、母は貪るように読んだことだろう。

 ある日押し入れから雑誌の山を見つけて、引き込まれるように読み始めた。それがその後の考えの基本を作っている。

 大量殺人者たちは、単に縄張りの線を引いてきたにすぎない。歴史とはそんなことではなく、今日何を食べたか、誰と話したか、何を感じたか、無事に眠りにつくことができたか、ということの集積だ。

 英雄なんかいらないのである。(了)

2022年7月30日 (土)

ゼド

 凱旋門賞狙ってオーストラリアから移籍のベリーエレガントの父ゼドを調べたら(Thoroughbred Databese)ザビール~サートリストラムの血統の馬のよう。同名異馬がたくさんいるが、生年と地域からこれだろう。

 ということは、まあカバーラップ二世の末裔が天皇賞に参戦、という程度の話題。オセアニアは1200ばっかやるのに、メルボルンカップがあったりこういう長距離馬が人気を集めたりと面白い地域。

 

 凱旋門賞は、出ればヴァデニ。出なくてもデザートクラウンではなく、トルカータータッソ対日本の馬。一応G1のうちに勝っときたいね。

2022年7月29日 (金)

豊栄特別

 アトミカはJRAのHPでは曲名と書いてあるが、ネット検索で不明。なんだろか。

 で、この馬は新潟1600は2度55キロで走って一度の5着。やや重で時計かかる馬場の前のこりで台頭したようだ。今回は良見込み。

 前走から今村で(52)軽い分残ったのか、馬が気分よく残ったのか。複勝にからむなら上出来。

ホウオウピースフル

 クイーンSは敷居が高いような気がするが、そこは晩成のオルフェーヴル産駒。以外と単勝があるかもしれない。

 ゆっくりと力をつけてくるタイプが多いオルフェーヴル、という感じもしている。5歳くらいでね。

創作・通信のない社会

 電話、メール、SNSその他の通信手段が一斉に消え去って一年。当初は各所で混乱したようだが、ないものは仕方がない。

 当然代用というか通信の主力としては郵便になった。年賀状もいきなり過去最高の枚数を更新したようだ。

 郵便事業もあっさり見直され、普通郵便の到着は翌日に戻され、低下していた到達率も、郵政民営化前の百%に近づいていると報じられている。官営に戻す議論も始まったようだ。

 以前のようにSNS他でアポイントを取って会うことはなくなって、代わりに葉書を出して都合を問合せ、諾の返信を待って訪う、という明治時代の習慣が復活した。往復で最短で三日かかりそうだが、通常の郵便に加えて、飛脚と言うかメッセンジャーパーソンの活用も始まっており、即日の回答も可能。ただし費用は掛かる。現代風なのは、葉書が本人以外に読まれたくない場合に目隠しシールが貼られていることだろう。

 子供は遊びたい時にはいきなり訪ねていくようになった。これは昭和風である。仲のいい友達が不在の時に泣きべそをかいて帰ってくるなんて光景は、かえって微笑ましい。ただ、遊び道具はゲームであって、室内で黙々とするのは令和四年と変わらない。

 最も改善されたのは学校だろう。SNSを介した陰湿ないじめを覚えている方も多いと思うが、ああいうのが一掃され、いじめは昭和のスタイルだけになった。従って下校して帰宅すれば被害者は解放される。(それだけでもほっとしています)と保護者会で話題になっている。

 歓迎されているのは、教員が水面下のSNSでやり玉にあがることがなくなったことだ。ずいぶんストレスが減っているようだと、各地の教育委員会資料に報告されている。

 遅刻、欠席はSNSを使った安直で精神的負担のない方法が廃され、どれも無届けとなった。学校に行くのが難しかったら休み、後日担任に報告する。これは良い面と良くない面があるだろう。歴史の評価を待つところである。

 元のように戻りたいか?というアンケートが新聞に載っていた。実に79%が否定的回答だったそうだ。(了)

2022年7月26日 (火)

『露伴全集 別巻下 拾遺下』

 総目次と初出年月で並べた年表がここにあるとは思わなかった。この年表を読んでいても面白い。今の自分の年齢で発表した文章は、ああこういうのか、という対比とか、この著作の年にこれも書いたのか、とか。この題名は読んでみたい、とか。

 「一茎の雑草を除けば、一分の朗らかさは来るのであるから、気をかたよらさずに最も着手し易い一辺からソクソクと高下板(こうげいた)を用うべきである。(中略)何でもなまじに選択取捨の小智を用いず厭かず倦まずに吾が手を働かせて、心に陰影をつくる者を除いて行けば、刻一刻の朗らかさは生ずるのである。」(「朗かな気合」)

 文章をこうやって取り出して、それだけ眺めると、当たり前のことが当たり前に見えてくる。

 取捨選択は、相手からされるものである。相手を取捨選択するもんじゃない。

 取捨選択して、自分にとって良いものだけを残したと思うのが間違いで、自分にとってなにがよいかなんて、永久にわからない。できることだけを続けていけばいいのである。

2022年7月23日 (土)

カデナは小倉1-1-1-1

 カデナは小倉記念と小倉大賞典に計4回走って、56キロ2着,57キロ1着,58キロ6着,57.5キロ3着となかなかの好走。どれもほぼケツから行って大外強襲。勝ったときでも後ろから3,4頭目。

 今回は57.5なので、複勝圏内が期待できる。

 そういう経歴の馬を先行させてみないかな。

2022年7月22日 (金)

意識

 デジャブ(既視感)とか言うけど、あれは認知症だって白状してるようなもんだよ。だって二度同じことやって気づいてないことなんか山のようにある、ねえ。

 ところでおぎゃあと生まれてから脳はずっと発達を続ける。感情は単なる「興奮」からどんどん分岐していく。

 そこで仮説1、発達を続ける神経細胞に意識が宿る。

 意識はたぶんそこら中に存在している。分岐・発達をし始めた神経細胞を見つけたら、ただよう意識が早い者順でそれに入り込む。そしてその神経細胞の分岐・発達と共に意識も複雑に分岐する。当然人間に限らない。全ての動物はそうだし、類似の機能がある植物なら意識を持っている。そこには分岐・発達の程度の違いがあるだけだ。

 意識からみれば、人間の脳は外部記憶装置である。年齢を重ねて衰えるのは脳の機能であって、元々の意識には衰えるとかそういう問題は発生しない。熱中症で気力が損なわれるように思うのは、宿っている体をいたわる意識が働くだけのことである。

 仮説2、心臓が止まり脳に血液が流れなくなると、意識は離れていく。そして次の宿に巡り会うまでただよい続ける。

 古い家。誰も住んでいない。その家の前を通ると寒気がする。通り過ぎて、気配を感じて振り向いても、誰もいない。

 そんな話は夏の定番だが、ずっと前にこんなことがあった。

 鹿児島に二年いて仕事をしていた。客先を夜遅く辞し、フェリーも終わっていたので、その日は桜島を通って帰ることにした。外灯はない。自分の車のヘッドライトと道路のラインだけが頼り。夜の十一時過ぎ。右には桜島の火山、左は海だ。

 ふと気がつくと暗闇に自分だけ。エンジンの音だけがアスファルトに響く。ラジオも入らない。一人を意識した途端鳥肌が立った。バックミラーで後ろを見ることができなくなった。真っ直ぐ前だけを見て走れ。運転に集中しろ。他のことを考えるな。違う意識が入らないように。後ろには誰もいないんだ、と。

 一時間走った。鹿児島市の灯りが見えた。へとへとになっていた。あれから25年。あの時ほどの緊張を感じたことはない。(了)

明日の小倉の今村聖奈

2R ミヤジシャルマン。1800芝。前走と同じ条件で、今回4キロ減。前走8着もコンマ6差。単勝はこれが一番面白い。

3R コパノリンダ。ダート1000。4,2,3着なのでそろそろ。1番人気か。

5R メイショウカジキ。新馬。1200芝でメイショウボーラー。50キロ。

6R インブレッドセンス。未勝利を3,2着ときてここ。前走から3キロ軽い。確勝か。

7R メイショウブレゲ。2走前にやや重で勝ち馬にコンマ1。その時より3キロ軽い。

8R ドゥライトアルディ。昇級戦。4キロ減量で、前走より5キロ軽い。

11R チェリーブリーズ。前走は1000ダート、54キロでついて行けず。今回は1200芝で51キロ。3前走、4前走で芝の短距離で55キロで共に勝ち馬から1秒以内。

12R ハイエストポイント。 前走は福島、今回は小倉だが条件は同じ1700ダート。前走は3キロ減量、1番人気で離された2着。今回は4キロ減量。また1番人気か。

 いっぱい乗るね。2勝くらいしそうな雰囲気。

 

2022年7月15日 (金)

七月盆

 心臓に問題がある人が、4回目のワクチンを打った直後に、一人は亡くなり、一人は血栓が腕にできて、透析の針を刺す位置を変えて一命はとりとめた、という話を知り合いから続けて聞くと、4回目のワクチンを早く(と国が言っている)という記事に、なんだかなあと思う。

 通り一遍にやっていいことと良くないことがある。その本人に合わせなければ間違う。誰でもやっているからやりましょう、他の人は打ちましたよ、というと死んでしまうかもしれない。

 母に今日は盆だから墓参りに行こうと言う。雨の降りよる。やんだ。とやりとりしてささっと行ってきた。昼をはさんでうるさいくらいの雨が降った。

 盆だということは先週、来週盆だけん盆提灯ば出しなっせ、と言って知らせているが、今日盆だということは別。母は言えば思い出すが、言わなければ思い出さないうちに過ぎてしまう。言って、ああそうだったね、と言わないところに母のプライドを感じる。その辺りが安心するところでもある。

 いい感じで母との距離が取れているのだと思う。去年の七月は、盆のことを言わなかった。言う気がしなかった。

 母は朝食を介護施設で食べて帰ってくる日と、そうでない日がある。食べてくる日もそうでない日も、仏壇に供えるためにご飯を炊く。食べ残しは残念だが廃棄している。母が気づいているかどうか。

 だから食べてくる日は少なく炊けばいいのだけれど、母は常に一定の量を炊くから、一日おきにかなりの量の廃棄がある。心の中で手を合わせてそれを捨てている。あなた方を捨てることで、母の食い過ぎと食中毒からの回避と、母の生活のリズムが守られている、と。

 母の心臓は特に(毎月聴診器を当てる医者からは)異常で治療が必要との指摘はない。雑音のない私の心臓よりはくたびれているそうだが、90歳相応だとのことだ。この調子だとあと10年くらいよさげだと思っている。100歳相応の心臓だと同じ医者が言うかどうか。医者の引退が早いか。

 まあワクチン接種で死ぬことはなさそうだ。(了)

2022年7月11日 (月)

無題

 株価が高いことを誰もがのぞむようになったら、善悪なんかどこかへ行ってしまう。やめておくれだよ。

2022年7月10日 (日)

佐野元春『今、何処』

 カーステレオが壊れて外しているので、車にCDプレーヤーを持ち込んだ。コンビニで乾電池を買った。亡くなった友達が持っていたもの。届いたばかりの新譜を聴くために。

 移動する前、朝から聴いて、地殻の振動が津波を起こすような震えがきた。前日夜にストリーミングで聴いたときには思いもしなかった共鳴。体の芯に発光体が入り込み光り続けた。

 往復七時間。佐野元春の『今、何処』アルバムが目の前の風景を変えていくのを感じていた。

 正直に言おう。

 佐野元春のライブが、どんどんライブ感をなくしていく。行く度にそれを感じていた。(信頼するHPの書き手は「同期音源」と表現している)。そこまでするのなら、小さいハコで、ライブハウスでやってもらった方がもっと解放感があるのに、と思っていた。

 しかし今度の新譜でわかった。アルバムこそライブのたまものだと。ライブでパフォーマンスをし、オーディエンスの感触、反響、感情を手触りで感じる。その感覚がスタジオレコーディングのこのアルバムに凝縮している。(それは佐野元春がずっと前からいろんなところで言っていたのだけれど)

 詩が音楽の波動に乗って脊髄を振動させる。音楽が言葉に内在する生命を増幅させる。

 誰かの、何かを歌っていながら、全部心臓に突き刺さる。まるでモナリザの目が自分だけを見つめているかのように。

 計画があって、それを実行するための日常。平板な世界に向かっていく、混沌をなくしていく。わからないものをわかろうとする。

 そうじゃない。

 あてもない感情は誰かの感情と出会い、いいことも嫌なことも、苦いことも高揚感も経験してしまう。何が待っているかわからない。でも、新しい出会いを求める。明日は、わからないから歩いていく価値がある。

 そんな気持ちがほとばしる。佐野元春はとんでもないクリエイターだ。

 このアルバムには希望がある。俺は希望を与えているか?(了)

2022年7月 3日 (日)

脱落

 機械的にやらざるを得ない。でもやられた方は人間性を段々失っていく。人間性が適切でないなら、個性と言い換えてもいい。

 介護施設に入所した知り合い二人。お互い全く関連のない方だし、二人の入所している施設も全く別。だが結果として、お二人に話しかけたときの反応がほとんど同じだった。そんな経験がある。

 介護の現場はたいへんだ。入所者は日一日と記憶力が薄れ、体力も落ちて手が掛かるようになっていくが、預けている家族は小中学生の保護者よろしく、ちょっとでも自分の基準からはみ出た対応だと感じたら直ちに指摘をしてくる。双方に悪気はないのだが、要介護者に接する側はストレスが溜まる一方だと想像している。

 家族は、うちの親は他の人と違ってこうでこうで、と言う。現場の方は一人一人に合わせてやりたい気持ちがあっても、日々たくさんの方に対応していると、家族の想いのようなきめ細かい対応は無理だ。マニュアルに沿って粛々と行動していかなければ、終わらない。

 それは家族も同じ。

 母が牛乳箱から牛乳を朝取り出すことが難しくなったようだ。入れたまま放置というのを見るようになった。それに気づくのは既に母が施設に行った後なので、施設の方と打ち合わせて、連れに来る運転手の方に、牛乳箱をのぞいてもらうことになった。これで母の判断による行動が一つ減る。そんなことが後いくつあるだろう。

 飯食たね。暑かよ。んなら。

ということくらいを母に投げかけるくらいになって久しい。母は、

食た。冷房の効いとって涼しか。ありがとう。

と答える。精一杯のやりとり。

 遠くで親を心配されている方。今の距離は大切です。接近しすぎると、時にたいへんです。室生犀星が、

故郷は遠きにありて思ふもの

と言っているのは、そういうことを含んでる気がしています。

 私が忌避する母の個性は、私を安心させる。母は私を安心させるための存在ではない。母は母である。ここをずっと回っている。(了)

2022年6月25日 (土)

ポタジェ

明日は連勝。

年度代表馬と差がある訳でもない。

2022年6月24日 (金)

変わる学校

 2030頃から地方の人口減少、都市部への流入が止まって、地方の税収が好転し始めた。政策というより、リモート勤務を標準とする企業が多くなったことによる。働く場所は電気水道のインフラさえあればどこでもよく、生活必要物資も、配達してくれれば不自由はない。定住する人が多くなれば、さすがに食料品や日用品を売る店、住宅の着工数、娯楽施設などが増えていって、どんどん住みやすくなる。2050年代には、都市と地方という区分もし難くなって、全国どこでも一定の比率で人が住むようになった。

 こうなるといろんなことが21世紀初頭とは変わってくる。一番変わったのは学校だ。小学校中学校の目的は、人との接触、リアルでのやりとりを学習する場と位置づけられている。

 要は殴り合いのけんかをする時も、加減を知る必要があるし、告白して断られた場合に、相手を殺傷することがないような気持ちを作るための教育である。ネットでの中傷やいじめはAIが管理して消滅させているから、その分溜まったストレスのはけ口を見つけてやる必要がある。

 リアルの人間関係構築を学校教育の柱とすることで、

・適切な(相手の許容範囲における)悪口の言い方。

・お互いを認め合いつつ自分の意見を相手に伝える方法。

・発生したけんかにおける(それぞれの)腕力発揮の限界値。

・相手が許容範囲を超えたり、失恋した場合の個別の対応など、それぞれが実践され習得されていく。

 そしてそれらを教育する教員に求められるのは、お勉強を教える技術ではなく、理想型として、いるだけで子供から尊敬を集めるような存在である。たとえその先生が、言うことを聞かない子供に往復ビンタを食らわせたとしても、子供とその親のほうが自分の非を悟るような存在。まあ2035年頃はそういう先生はAIばっかりだったが、この頃は人間の比率も年々増加しているそうだ。

 思春期に対人関係の教育をしっかり受けて、リアルでのやりとりは楽しいという気持ちができていると、大きくなったらこんな会話になる。

「ぬしゃ何ば言いよっか!打たるっぞ!飲まんか!」(了)

2022年6月18日 (土)

PLAN75

 早川千絵監督の映画『PLAN75』を見に行った感想。

 75歳で自ら生涯を終える選択をされた方に、国が支援して心配のない最後を迎えてもらう、そういう制度が法制化された、というお話。

 あ、深刻に考えるとたいへんです。私は大好きな倍賞千恵子さんが、75歳で終わるしか残されてないのか、とため息をつくような目をしている写真を見て、行きたくなって子供を誘いました。

 思いつくままに寄せます。

 70代後半で仕事を切られると、もう働く先はない。その現実は遠い将来ではない。住むところも、生活保護を受けない限り、貸してくれる相手がいない。

 年齢は、誰にでも少しずつ立ちはだかってくる。決してあらがえない。主人公の最後を支援する側の公務員の若者も、自分の将来と考えたら、死に向かう人と会話なんかできないだろう。後始末をする係の女性も、自分の感情を保ったままでは、仕事にならないはずだ。自分を押し殺して、PLAN75の希望者に向かっている。しかし、AIでなく人間が、最後の看取りと後始末をするところにこの映画の根っこがある。そう思いました。

 辛いこと、直視したくないこと、面と向かって言いたくないこと、それを誰かにやらせたり、(これからはどんどん)AIにさせたり、そんな世の中になっていきそうだ。

 だけど、PLAN75という画期的な制度の持つ冷たい側面を、せめて人間が最後に携わることで和らげてあげたい。いや、そうしなければいけない。

 たとえ言葉はマニュアルで固めてあったとしても、人間がそれを口にし、人に向かう限り、どこかに感情が宿るはずだ。映画では、四人四様の、そんな感情のほとばしりが描かれて終わる。

 身寄りのない主人公は、最後の日までの時間を、担当者との15分だけの電話を楽しみに過ごす。自分という存在を、ちゃんと認めてもらっている、という深い満足感が伝わってくる。誰もが、そんな会話をしたいと思っている。

 映画は6/23(木)まで。熊本ピカデリー(だけ)。(了)

2022年6月15日 (水)

しら露の

 幸田露伴の全集補遺(下)から。芭蕉七部集だったかに関する文章。

しら露の群れて泣ゐる女客  越人

 つれなの医者のうしろ姿や 嵐雪

どちらも暗涙をもよほさせる。

 

 決して一方だけでは成立しない。しら露の...があるから、医者のうしろ姿が情景を想像させる。ただ、少し過剰かもしれない。

 いろんな文章はどれもそう。幸田露伴に限らず、そう。

(追記)その後の文章を読み進んだら、俳諧は中心が一つだが、連歌は楕円がそうだ。過剰、と上で感じたのが連歌のもつ本質かと。

 

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